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日本の起源-アジア五加総論 (後篇)

馬族の正体-「則天武后と藤原一族」

日本国とは馬族による国号だったのか?




読者の皆様、こんばんは。

3連休の初日、如何お過ごしでしょうか?

アメブロから引っ越しして、2回目の更新となります。

前回は「アジア五加が、倭の五王だった」との妄想を披露しました。

今回は、五加と倭国の関連を意識しながら、古代日本史の考察を進めていきたく思います。


#saitou01


今更ながら、倭国と日本の本質をおさらいしてみましょう。

日本列島の支配者は、西暦701年(
大宝元年、紀元1361年)に交代。

以来、今年で1312年目の馬鹿族である藤原支配が続いているのです。

唐代中期736年成立の『史記正義』に、以下の一文があります。

「武后、倭国を改めて日本国と為す」

諸説ありますが、素直に解釈しますと武周の女帝である武則天が倭国から日本国へと国号を変えたとの意味を成します。


#sokuten2



面倒とは思いますが、下記の年表をじっくりと眺めて頂きたく思います。

655年、
武則天(則天武后)が皇后に即位。(唐の実権を掌握)

660年、武則天、百済討伐。

667年、武則天、旧百済・倭国連合軍に勝利(白村江の戦い

668年、天智天皇即位。 近江朝廷之令(近江令)制定

672年、武則天、高句麗を殲滅。
 
672年、壬申の乱

673年、天武天皇即位(元号:朱鳥)

686年、天武天皇崩御

689年、飛鳥浄御原令

690年、武則天、自ら皇位につき国号を「武周」に改める。

690年、持統天皇即位(父:天智天皇) 

690年、藤原京建設開始
 
701年、日本列島で大宝律令施行(評の廃止、群の制定)

701年、藤原不比等、正三位大納言に昇進

702年、持統天皇崩御

705年、武則天、崩御



重要ポイントは、倭国は則天武后と天智派によって壊滅的打撃を受けた事であります。

更に、倭国の天皇家本拠である大宰府が占領されたのです。
 
参考:九州王朝説


#kyuusyuuoutyou



武則天が高句麗を攻めている間、倭国は天武天皇を旗頭に実権を回復。

天武天皇、崩御の後は再び天智天皇の娘である持統天皇が女帝として君臨。

以後、天武派(旧倭国連合)と天智派(馬族日本国)の確執を繰り返しながらも、藤原一族の1300年支配が続いているのです。

天智天皇時代の中核を担っていたのが、大友氏、蘇我氏、中臣氏(鎌足) 。

天武天皇は倭国の皇子だったと推察されます。(倭国皇太子の弟か)

倭国の皇居は、大宰府にあったと言えるでしょう。    

#dazaifu02 
 
歴史を顧みると、武則天・天智・藤原の鮮やかな連携が鮮明となっております。

冠位十二階や十七条憲法等の制度は、秦王朝の末裔でもある犬族が導入したものです。 (シルクロードから新羅経由で日本列島へ)

補足ながら、秦氏と前方後円墳及び原始キリスト教との関連を思い出しましょう。

新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とありますが、年表によりますと、天智天皇即位から2年後の事です。

武則天・新羅・日本は軍事同盟を結んだと思われます。

つまり、670年から672年の壬申の乱勃発までの2年間は「日本」だったのです。

その後、天武天皇の即位をもって再び「倭国」が復活するのです。 

 
#tenmu_outyou02


天武天皇の崩御後は、吉野の盟約は反故にされ天武天皇の子である草壁皇子や大津皇子ら天武派の粛清が断行されるのです。

吉野は倭国ゆかりの土地と言えるでしょう。

結果的には、武則天・天智天皇・藤原鎌足・持統天皇・藤原不比等らが建国したのが「日本」なのです。

そして、武則天支配の短期間に倭国・百済・高句麗が滅亡しているのが歴史的事実なのです。

下画像:開元通寶

#kaigen  


以下、wikiより引用。

古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。

引用終了。
 
アカデミズムは異説と捉えているが歴史を時系列に眺めると「倭国」と「日本」は明らかに異なる勢力である。 

倭国は、九州年号を使用していたのです。
 
参考:大宰府 遠の朝廷 筑紫太宰帥

#wadou 




「倭国」は天武朝、龍蛇族・鳥族・牛族・犬族の連合国家。


「日本」は天智朝、馬鹿族国家。

倭国にとって、大宰府(古代天皇家)と飛鳥(殷王室・鳥族)は密接に連携していたと思われる。

大宰府と飛鳥は、京都と江戸の様な関係。

馬族国家、日本の歴史は武則天(馬)と藤原一族(鹿)によって改ざんされた歴史なのである。

そして現在でも、龍蛇族・鳥族・牛族・犬族は馬族によって完全消滅されようとしているのである。

中でも牛族は、かなり追いつめられている。

馬鹿族と爬虫類族が目指す、超管理型奴隷社会。

これが、皇室と英王室の裏支配者の正体でもある。

#shitennouji 


和の心とは、倭の心でもある。

言向け和す(ことむけやわす)の精神。

私達は、憎しみ合い争う事なく、五族協和の時代を迎えるのです。
 
日月神示も聖書の暗号も、最終結末は同じなのです。

2020年の東京オリンピックは、東洋の新しい時代の幕開けとなりそうです。

それでは、そろそろお別れです。

中年サラリーマンの妄想を読んで頂きまして、ありがとうございました。

おまけ-歴史的直観力













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コメント

§ 【古代史は石渡信一郎から始まる】

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

§ むらかみからむ様へ

はじめまして。
コメントありがとうございます。

貴殿が半年間かけて理解した石渡論。
大変、申し訳ありませんが古代史駆け出しのヒヨコ組の私には貴殿のコメントを
数回繰り返して読んだだけでは、内容が完全に理解出来ません。

聖徳太子=蘇我馬子 説はかろうじて私も知っておりました。
百済王家の血統が倭国皇統と混血している事は、白村江の戦いの意味を
考えますと、自ずと結論が得られる事であります。

広い意味で考えますと、扶余族より枝分かれした高句麗・新羅・百済の三韓は
倭国も含めて「倭人」とも言えるのでは無いでしょうか?

貴殿のメッセージの意味が完全に理解出来る様、そして「大和民族大移動」を是非とも読んでみたいと思います。

今後とも機会があれば、色々とご教授願いたく思いますので宜しくお願い致します。

§

安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。

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